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 「紫式部と源氏物語」


  はじめに

   NHKは毎年1年かけて歴史ものなどを含む様々なジャンルの題材を大河ドラマで取り上げ放送しています。20241月からは、源氏物語を書き上げた紫式部を主役に「光る君へ」というタイトルで放送が始まりました。
   この源氏物語、大学の入試でも多く取り上げられている上、この物語に興味をもって勉強した人も多いことと思います。私も、この物語が生まれた平安中期の天皇を取り巻く宮中の様子や貴族階級社会などに興味を持った一人です。
   そこで、この放送をきっかけに、私なりの視点で、この物語の構成と作者の紫式部のひととなり、歩んできた道のり、作者自身が書くに至った心境や願望などについてつづってみたくなりました。また、これを述べるに当たり、現在出版されている源氏物語についてのあらゆる書籍・文献などを参考にさせていただきました。

 源氏物語のあらまし

   「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまいけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時たまふありけり。・・・」
    
    ・・・で始まるこの物語は、平安時代中期に、書かれた世界でも最古ともいわれる全54帖の長編小説です。作者は歌人でもある紫式部。

     紫式部像(京都盧山寺・ろさんじ)
    
    物語の主人公は「光源氏(ひかるげんじ)」。天皇の実の子(皇太子)でしたが母が「更衣(こうい)」という身分の低い人だった上、有力なうしろだてもなかったため、天皇になれない宿命を負っています。こうした生まれによる不運は、この当時は、珍しくない話でしたが、人が能力より身分で評価された時代です。いたるところで涙を呑む人がいました。
    源氏物語は、こうしたハンディーを持った光源氏が多くの女性たちとの恋愛模様を繰り広げ、不運を乗り越えて出世し、そして没落してゆく様を3部構成(2部構成という説もある)で書かれた小説です。皆さんはご存じと思われますが、参考までに全54帖の構成の概略と紫式部の表現描写の巧みさも追加し、述べておきます。

 
■「物語の構成」

◎第一部(1帖「桐壺」-33帖「藤裏葉」)

      ・・・光源氏の誕生から様々なタイプの女性との恋愛遍歴や栄華を極めた物語

◎第二部(34帖「若葉」-41帖「雲隠」)

      ・・・栄華を極めた光源氏の愛情生活の破綻転落、光源氏を取り巻く子女の恋愛模

        *この第一部と第二部は光源氏を軸に描かれています。

 

◎第三部(42帖「匂宮」-54帖「夢浮橋」)

       ・・・光源氏没後の息子・「薫」を中心とした子孫の恋と人生の悲哀

       45帖「橋姫」-54帖「夢浮橋」までの10帖は「宇治十帖」と言われています。

 ■「多彩な登場人物と表現描写の巧みな作者に注目!」

  ①「文章の表現はストレートを避け、恋愛模様の核心部分について、和歌795首を効果的に用いて婉曲的なタッチで表現している」

  ②「登場する人物が400人を超える中で、光源氏と恋愛する様々なタイプの女性を登場させ、その場面展開を憎らしいばかりのち密    さをもって、この物語を引き立たたせようという戦略がうかがえる」
  
  ③「文字は漢字ではなく、ひらがなでかいている」

              ・・・などこの物語を書く上で紫式部の深い思慮と卓越した技量をうかがわせます。

  作者・紫式部について

①出生と邸宅

    紫式部は、平安中期の西暦970年代(生まれ年については970年~978年の間と諸説あります)に盧山寺(ろさんじ・現京都市上京区北之辺町)のあるところで中流貴族の次女として生まれました。

      紫式部の邸宅跡(盧山寺)

   父は漢学者の藤原為時(ふじわらためとき)、母は早くに亡くなりました。生まれた場所は、曾祖父で中納言の藤原兼輔(ふじわらかねすけ)によって100年ほど前に建てられ、その後、父・為時に引き継がれたもので、鴨川に接していて御所にも近く、広い邸宅でした。
   邸宅には白砂と苔の庭(「源氏の庭」と言われています)があります。ここでは、毎年6月から9月上旬にかけて紫色の桔梗(ききょう)が咲いていたという。紫式部はそうした環境の中で、多くの時間をこの邸宅で過ごしました。

   紫式部が慣れ親しんだ「源氏の庭」

           桔梗の花

   一時、越前守(現福井県越前市)として赴任した父に付いて福井へ行きましたが、3年後に福井から京へ戻り、20代後半で、20歳も年の差のある夫の藤原宣孝(ふじわらのぶたか)と結婚、住み慣れた邸宅に住み、娘・賢子(けんし・のちに出世を果たし「大弐三位」と呼ばれた)をもうけました。

     落ち着いた雰囲気の「源氏の庭」

②作家・歌人の紫式部と時代背景と苦悩

 ▽紫式部の文才

   紫式部の文才は小さいころから、目立ちました。漢学者の父が、兄たちに漢文を教えようと必死になりましたがなかなか上達しなかったのに対して、紫式部の漢文への理解は早く、その後、歌集や歴史書などを読むなどして、文学者としての見聞を広めました。

        源氏物語を書く紫式部

   また、年を経るにつれて、幅広い層の人たちとの交流もあって、多くの知識を得たほか、様々な経験を重ねて、視野を広めてきました。また各地の人々の暮らしや自然環境、地域の特性などを実際に目で見てきました。

 ▽当時の時代背景

   一方、当時の貴族社会は、階級制度が厳しく身分による差が激しい社会構造になっていたほか、一夫多妻制が常識となっていて、女性にとっては、悲喜こもごもの時代となっていました。

 ▽和紙と墨の入手に苦労

   さらに、この時代は、高貴な人たちは別にして、下級の貴族たちにとって、文章を書くのに必要な和紙や墨は自由に手に入れるのが難しい、いわゆる貴重品でした。このため作家・歌人などは、和紙を手に入れるのに苦労をしたと考えられます。そして、高貴な人に近づくなど、あの手この手を使って和紙を手に入れたときに、物書きをしていたということが伝わってきます。

③源氏物語を書くきっかけ

 ▽夫の死

   夫の藤原宣孝と結婚した紫式部は、生まれた一人娘・賢子を育てながら、家庭生活を送っていましたが3年後に夫が突然、病死します。この死による悲しみを紛らかすかのように「源氏物語」を書き始めたといわれています。この年は、西暦1001年(長保3年)のことでした。

 ▽文才を認めた応援団?登場

   紫式部が書き始めた「源氏物語」は、しばしば宮中の女性たちの日ごろの話題になり、この文才に目をとめた人物がいました。それが時の権力者で左大臣・藤原道長(ふじわらみちなが)でした。
   当時、紫式部は和紙を手に入れるのが難しく、「源氏物語」は、和紙が手に入ったときに書いていたともいわれていています。藤原道長という応援団、スポンサーを得て和紙が手に入るようになり、筆も大いに進んだこと間違えありません。

 ▽宮中に仕え、体験を通じて物語も充実

   物語を書き始めて5年たった1006年ころ(寛弘2年)、道長の命で、道長の娘で当時の一条天皇の中宮(ちゅうぐう)・彰子(しょうし)に、女房兼家庭教師として仕えるようになります。
   紫式部にとって、目立つポジションで働くのは苦手だったということですが一方で、宮中での様々な体験を通じて、多くの知識を蓄えることができたことや和紙も潤沢に手に入るようになったことから、たっぷり時間をかけて物語をかけるという満足感もあり、筆は大いに進んだものと推測されます。

 ▽お寺参りとリフレッシュと物語のネタ集めの旅

  ◎石山寺(いしやまでら・滋賀県大津市)

    紫式部は、岩場を利用して建立された石山寺(現・滋賀県大津市)に出かけています。

       石山寺(滋賀県大津市)

   当時、願い事や悩み事があった際、寺にお参りに行く習慣があり、石山寺にも、多くの人がお参りに通ったといわれています。紫式部も、1004年(寛弘元年)の8月に石山寺を訪れ、本堂の一角にある部屋に一週間にわたって逗留しました。

         石山寺の本堂

    この逗留の際、琵琶湖(びわこ)に映る十五夜に感激したといわれています。物語の12帖「須磨(すま)」の中には「今宵は十五夜なりけりと思い出でて、・・・」という書き出しがあり、石山寺で見た月のシーンを思い出し、源氏物語の一節に反映させたのではないかと言われています。

  美しい月が眺められる「月見亭」(石山寺)

    紫式部がこもった部屋は、後々「源氏の間」と言われるようになり、古き時代から毎年多くの紫式部フアンが全国から見学に訪れているということです。

     紫式部がこもった「源氏の間」

  ◎宇治川(うじがわ・京都府宇治市)

    紫式部が、実際に宇治を訪問したという記述はありませんが、宇治を舞台に書かれた「宇治十帖」の「橋姫」から「夢浮橋」で終わっていることに見られるように、川霧に煙る宇治川がなくてはならない物語の舞台と考えられます。

       宇治川(宇治橋)と紫式部

    このため紫式部は、あるとき宇治を訪れ、川に立ち上る川霧を眺めたことがあるのではないかと勝手に想像してしまいます。
宇治市の宇治川の袂などには、紫式部の石碑が数多く建立されています。

   源氏物語・最終帖「夢浮橋」の記念碑

 51帖「浮舟」「小舟に乗った匂宮と浮舟」の像

    女流作家・紫式部の足跡をたどる人達が、毎年多数訪れ、はるか1000年の時をたどっています。

「源氏物語と宇治」のかかわりを説明する看板

10年近くをかけて源氏物語完成

    物語を書き始めてから10年、1010年ころ(年)に源氏物語は完成(ここにも諸説あり)したといわれています。小さいころから漢文などを学び、多くの書物を読み漁り、結婚という経験もしました。

          紫式部の画像

    さらに、紫式部の文才を高く評価した有力な応援者の出現、宮中での様々な体験、貴族社会という上下の差が激しい特殊性、それに地方に足を延ばして見聞きしてきたことなど様々な知識を蓄えたうえ、日ごろ紫式部自身がこうしてほしいと思っている願望や当時の社会に対する生きづらさなどをアピールする場としながら、書き続けた長編の物語ではないでしょうか。

⑤物語完成後は・・・

  大作を書き上げた紫式部は、その後も中宮・彰子に仕え、さらに一条天皇が崩御し、彰子が一条院の女院(皇太后)となった後も引き続き仕えていましたがその役目を、娘の「賢子」にそっくりバトンタッチ、宮中生活を退きました。

 ◎宮中勤めの中で「紫式部日記」も書き上げる

  紫式部は、宮中に仕えていた間の1008年(寛弘5年)から1010年(寛弘7年)にかけて、「紫式部日記」を書き上げました。その日記は、前半は基本的には仕えていた一条天皇の中宮・彰子の出産記録や出産後のお祝い事、後半は宮中で働く人に対する個人的な思い(人物評など)をつづっています。

⑥宮中退いた後は・・・

    源氏物語、紫式部日記などを書き上げ、文才ぶりを発揮、人々を物語にくぎ付けした一方、宮中での勤めを終えた紫式部は、現在墓のある京都市北区紫野西御所田町に当時あった、雲林院白毫院(うんりんいん・びゃくごういん)で、晩年を過ごしていたいたといわれています。亡くなった年代は、1014年(長和3年)から1031年(長元4年)と研究者によって様々で、わかっていません。

 ◎紫式部の墓に隣接したもう一つの墓の謎!

    紫式部の墓のある一角には、もう一つ墓が隣接しています。

       紫式部ら2人の墓の入口

    この墓は、小野篁(おののたかむら)という人のもので、嵯峨天皇に仕えた平安時代初期の官僚で、歌人としても知られる人物です。この2人には年代に違いがあり、どうして隣接しているのか?は謎で、ここを訪れる人たちの話題になっています。


  左側が「紫式部」、右側が「小野篁」の墓

    ただ、小野篁という人は、“この世と地獄を行き来し、閻魔大王(えんまだいおう)のもとで役人をしていた”という伝説の人。源氏物語が宮中の色恋沙汰をあらわにし、世の風紀を乱したとして、「紫式部が地獄に落ちた」という話が広がった際、これを救ってもらうため、小野篁の墓を紫式部の隣に移したという伝説があります。

           紫式部の墓

   一方で、小野篁が閻魔大王にお願いして、紫式部を助け出した際、自分の墓の隣に、紫式部の墓を移したという伝説もあり、真相は謎のままです。紫式部を語る際の話題のひとつになっています。

 

 紫式部と娘・賢子(大弐三位)

   紫式部は、999年ころ(長保元年)一人娘の「賢子(けんし)」を生み、その3年後夫に死別したあと、賢子を女手一つで育てながら、源氏物語を書き、宮中で働いてきました。
   こうした母親を見て育った娘も、母親の血を引いたのか歌人としてもすぐれたうえ、母親と同じ宮中に仕えて、1025年(万寿2年)に後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)の誕生で「乳母」になり、さらに後冷泉天皇の即位とともに従三位に昇進、「大弐三位(だいにのさんみ)」と呼ばれるようになりました。

  紫式部と娘・賢子の歌碑(京都・盧山寺)

   多くの人生経験をしてきた母親の愛情と教育を受けて、確実に成長を続けた賢子、幸福な生涯を送ったのではないかとみられています。歌人として知られる親子の詠んだ歌は、百人一首に連番で選定されています。2人の歌は下記の通りです。

▽紫式部(57番):

          紫式部の歌碑

      「めぐり逢いて 見しやそれともわかぬ間に

      雲隠れにし 夜半の月かな」

▽大弐三位(58番)

    娘・賢子(大弐三位)の歌碑

          「有馬山 猪名(いな)の笹原(ささはら) 風吹けば

       いでそよひとを 忘れやはする」 

 



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